ダーク ピアニスト
〜練習曲3 夢の轍〜

Part 2 / 2


 翌日もルビーは教会へ行った。そこで、いつものようにシャンティーヌと会い、オルガンを弾いたり、彼女に聖書を読んでもらったりした。
「……そこでイエスは言いました。『他の誰よりも、子供達は天の国の扉をくぐるのにふさわしい者達なのです』と……」
それは、きれいな絵の付いた子供向けの絵本だったが、ルビーは生まれて初めて聖書の言葉に触れたような新鮮な感動を覚えた。
「もっとだよ。もっと聞かせて、シャンティーヌ」
そんな二人を、神父は微笑みながら見つめていた。
「午後はわたしの家へいらっしゃい。あなたのためにマドレーヌを焼くわ。いっしょにお茶にしましょうね」

彼女の家の庭には色取り取りの花が咲いていた。それを見て、ルビーはいつも喜んだ。
「あなたは、本当にお花が好きなのね。少し切ってあげましょうか?」
「ううん。このままがいい。このお庭で咲いているのが花達にとっても一番幸せな事なんだと想うの。あなたの側にいられる事が……。ああ、僕もここの薔薇になれたらいいのに……そうしたら、ずっとあなたを見つめていられるのに……」
「でも、そうしたら、こうしてお話出来ないわ。それに、オルガンを弾く事も出来ないでしょう?」
とシャンティーヌが妙に寂しい目をする。
「その通りだ。僕は人間でいられたから、こうしてあなたと巡り会えたんだ」
ルビーは慌てて否定すると、彼女の目をじっと見つめて言った。
「愛しています。シャンティーヌ。僕の大切な人……」
「ルビー……」
二人はじっと見つめ合い、抱擁するルビーの背中を、彼女はやさしく撫でてくれた。甘い匂いが胸いっぱいに広がって彼はうっとりと庭を見た。遠くの丘に馬車が行くのが見えた。

「あれは……何?」
「珍しい? あれは、この辺りを巡る観光馬車なのよ。この辺りは昔とちっとも変わっていないから、ああして馬車に乗っているとまるで昔にタイムスリップしたような気持ちになれるの」
「それは素敵! 今度、僕も乗りたいな……」
「そうね。いつか乗りましょうね。あの馬車に……そして……」
と彼女が言い掛けた時、突然、ルビーが大声を上げて空を指差す。
「見て! 鳥だよ。幸せの青い鳥だ!」
けれど、そこにはただ空と穏やかな風が吹いているだけ……鳥など何処にもいなかった。けれど、彼女はその空を見てにこやかに言った。
「ほんと。鳥だわ。幸せの青い鳥がそこに!」
そして、二人は顔を見合わせてうれしそうに笑った。


 ――愛しているわ
夢の中の彼女が言った。その視線は真っ直ぐピアノを弾く彼の横顔を見つめている。彼女は小さな机の上でサラサラと何か書き物をしていた。その手を不意に止めてそう言ったのだ。彼はサッとピアノの椅子から立ち上がると彼女の側に行って思わずその肩を抱いた。彼女が持ったペンの羽がそっと彼の頬を撫でる。彼はそのペンを彼女の手から取り上げるとペン皿に置いて、じっと彼女を見つめる。
「どうしたの?」
と彼女が訊いた。
「ずっとこうしていて……僕を放さないで……」
そう言って彼女を強く抱き寄せた。その袖が机に触れてカタンとインク瓶の蓋が床に落ちる。それは、彼らの足元からカーペットを転がってソファーの足にぶつかった。その瞬間、蓋は生き物のように小さく震え、パタンと伏せた。彼はじっとそれを見つめていた。その彼の体も微かに震えている。
彼女が脇に掛けてあったショールを取ろうと手を伸ばしたが、彼はその手を掴むとグイと引き寄せ、自分の胸に当てた。
「本当にどうしたの? 子供みたいよ」
彼女はそう言って微笑むともう片方の手で彼の頭を撫でた。
「怖いんだ……君が離れて行ってしまいそうで……」
彼はその胸に顔を押し付けて言った。
「バカね。そんな筈ないでしょう? わたし達二人、こんなに互いを愛し合っているんですもの」
と言って彼女はショールを取るとそっと彼に掛けてやった。
「身体を冷やすとよくないわ。少しベッドに行って休みましょうか?」
と立ち上がり掛けた彼女の身体にしがみついて彼は言った。

「いやだ! そうしたら、君はまた僕を置いて行ってしまうんでしょう? そして、僕の知らない誰かと楽しそうにおしゃべりするんだ。僕の知らないところで……! そんなにも楽しいの? 僕といるのは退屈なの? 僕のピアノは……」
そこで、彼は激しく咳き込んだ。その背をやさしく撫でながら彼女は言った。
「あなたのピアノは素晴らしいわ。それに、あなたといる事はちっとも退屈なんかじゃない。でも、聞いて。ずっと24時間あなたの側にはいられないの。わたしにはわたしの仕事があるし、しなくてはいけない事だってあるのよ」
小さな子供を宥めるように彼女は言ったが彼は激しく首を横に振った。
「そんなのみんなやめちゃえよ! 仕事なんかしないで! 君は、僕の側にいさえすればいいんだ!」
と泣き喚く。そんな彼に彼女は小さくため息をついて言った。

「さあ、もう泣かないで。ベッドに行きましょう。あなたは病気なのよ。眠ればすぐによくなるわ。そしたら、また、森へ散歩に行きましょう。元気になれば、またたくさんおしゃべりも出来るし、ピアノだって弾けるようになるわ。元気になれば……さあ、立って。熱いスープを持って来てあげる」
そう言って彼女は背中を向けた。そして、ドアに向かって歩き出す。その度、彼女の背中は小さくなってどんどん薄く透き通り、やがてドアを通り抜けて消えてしまった。ただ独り部屋に残された彼の前には風に揺れるカーテンの影があるだけ……。
――行かないで……
けれど、その言葉は悲し過ぎて声にならず、代わりに落ちた寂しさが彼の白い服を濡らした。それは、漠然とした不安だった。
(僕は、もうすぐ彼女と会えなくなる……)
彼は高い天井を見つめた。
(それは、彼女のせい? 僕のせい? それとも、抗し切れない運命の悪戯?)
「怖い……」
彼はギュッと自分自身の体を抱いた。
(怖い……。死が……運命が僕を弄ぶ……)


 (そう……残酷な運命が彼女と僕とを引き裂いて……僕は独り……まだ君に会えずに右往左往している……)
暗闇の中、ルビーは電気も点けずにそこにいた。開け放された窓からは冷たい夜風が忍び込み、彼の心を寒くした。
「まただ。また、あの人の夢……」
ベッドに掛けたまま、彼はじっとそのドアを見つめていた。彼女が消えてしまったドア……けれど、それはそのドアじゃない。ここはホテルの部屋だ。ピアノもないし、彼女もいない。
(あれは一体誰だったんだろう? シャンティーヌ? いや、それは違う。シャンティーヌは、確かに僕にとっては大切な人だけど、大好きな人だけど、あれは、シャンティーヌじゃない。もっと深く、僕の心の奥に入り込んだ人……僕のすべて……僕の宝……僕自身より大切な……)
ふと、夢の中の彼女の影がルビーを見つめた。悲しい瞳……。何かを言いた気なその唇は、しかし、閉ざされたまま動かない。

「ごめんよ……」
と彼は行って涙を流す。
(ごめん……。昔、僕が傷つけてしまったやさしい恋人……。そして、君は、僕を傷つけて行ってしまった……。僕を傷つける事で、君は君自身を傷つけて……。僕達は、わかり合う事が出来なかった……! けど、今は違う! 今なら、君を……)
そう考えて、彼は妙に滑稽な気がして苦笑した。
「出来るのか? 本当に……? 出来るだって? とんだお笑い種だ。答えはNEINナイン! 決まってるじゃないか! 今の僕を見ろ。たとえ、今、彼女に巡り会えたとしても、もう僕は彼女にふさわしくない。もう一度出会って君を傷つけるくらいなら、いっそ会わない方がいい! 会わない方がいいんだ! 僕は、もう闇の中でしか生きられない。僕は、君のものにはなれやしない……! 永遠になれやしないのだから……!」

――ルビー……
シャンティーヌの声が呼んだ。
――あなたも行ってしまうのね。ルビー……わたしを置いて
「そうだよ。僕は、もう後少ししかここにいられないんだ」
ルビーは、昼間、彼女に言った同じ台詞をもう一度自分に言って聞かせた。
「たとえ、どんなにあなたが望んでも、僕がそうしたいと願ってもそれは、遠い幻でしかないんだ。僕の手足には、重く冷たい鎖が絡みついてる。逃れられない運命という鎖が……。だけど、あなたは幸せでいて……。薔薇と微笑みの似合う人……僕の幸せの青い小鳥でいて欲しい……。遠くで空を見上げる度、あなたの事を思い出せるように……」


ルビーはベッドの脇のワインを開けると、グラスに注いで一気に飲んだ。たった一杯のワインに何故か心臓が高鳴った。
(曲が弾きたい……)
けれど、そこには何もなかった。オルガンもピアノも何も……。
「眠れないんだ……」
彼はもう一度ワインのボトルに手を掛けた。が、やがて、彼は窓際に立つと闇を見つめた。遠くでチカチカと空が光った。湿気を含んだ空気がゆっくりと近づいている。雷光に照らされて一瞬、教会の十字架が光って見えた。
――ルビー……
頭の中に声が響いた。
「シャンティーヌ……」
それは、確かに彼女の声だった。けれど、それは今にも消えてしまいそうな微かな声だった……。ルビーの心に不安が広がる。と、突然、ズキンと鋭い痛みが胸を突いた。
「これは、何……?」
いてもたってもいられずにルビーは外へ飛び出した。今にも雨が降り出しそうな闇の中へ……。


 しかし、彼女の家に行ってみると、部屋の電気は消えていた。呼び鈴を鳴らそうかと迷って指を掛けたが、今がもう随分遅い時間だったと気づいて止めた。
(明日、また来ればいいんだ。明日になれば、また、あのやさしい笑顔に会えるのだから……。夜明けまで、後何時間でもない筈だ)
ルビーは懸命に自分に言って聞かせると、そのまま踵を返して駆け出した。稲光が激しくなった。ゴロゴロと雷鳴も響いている。雨になりそうだった。しかし、ルビーはもうそれを怖がったりしなかった。何時の頃からだったろうか? 雷に怯えなくなったのは……?
(昔は……子供の頃は、いつも雷が怖かった。あの凄まじいエネルギーの激突から生じる光が……。音が……。彼から見れば計り知れない破壊的な力で迫って来る恐怖。憎しみと怒りの咆哮……。空の爆発……。神の怒り……。
(本当にそうなのかもしれない……)
と彼は想った。が、その怒りが凄まじければ凄まじい程、その光は美しかった。天をも突き崩すような轟音は彼の頑なな心をも粉々に粉砕してくれるような気がした。ホテルに戻るには、まだ大分距離がある。と、その時、天が震え、光が満ちてピシッと頭上の空が砕けた。そして、次の瞬間。叩きつけるような雨が降り出す。

「ホテルはどっちだろう?」
闇と雨のせいで彼は方向を見失った。と、一瞬雷光に照らされて教会の十字架が光って見えた。
(あそこで雨宿りさせてもらおう)
ルビーは急いでそちらへ向かって駆け出した。が、その道はルビーにとって初めての道だった。いつもと違う幻想が彼の判断力を狂わせた。
「どの道を行けばいいんだろう?」
彼が途方に暮れていると突然、
――目を覚ましていなさい。何時その時が来てもいいように……目を覚ましているのです
彼女が読んでくれた聖書の一説が心に浮かんだ。その声に導かれるように、彼は迷わず教会の前に来た。

「あーあ、濡れちゃった」
ルビーは慌てて教会の中へ飛び込んだ。僅かに扉が軋んでバタンと大きな音を立てたが、丁度その時響いた雷鳴がその音をかき消した。無論、教会の中には誰もいない。嵐の夜に態々来るような物好きは、当然ながらいなかった。ルビーはゆっくり中央の通路を歩んでオルガンの前に進んだ。そして、おもむろに曲を引き出す。『トッカータとフーガ』……。稲妻と雷鳴が交錯する。と、一際大きな雷鳴が轟いた時、悲鳴のような声が響いた。ルビーはピタリと指を止め、耳を澄ました。が、雨の音と風の音、それに、先程の雷の残響が遠く尾を引いていて何も聞こえはしなかった。

(気のせいか?)
ルビーは、再び鍵盤に指を置いた。が、今度は確かに人の声が聞こえた。
(誰かいるのか?)
ルビーはゆっくりと椅子から立ち上がると奥へ向かった。と、そこへ一際大きな雷が響き、照明が消えた。が、引っ切り無しの稲妻のせいで中はフラッシュのように光と闇が交錯した。ふと見るといつもはやさしいマリア像の微笑みも深く陰影が掘り込まれて恐ろしく見えた。ルビーは更にその奥へと進む。そして、重くがっしりとしたその扉を開けた。途端に稲光りが差して中の様子を映し出した。

「……!」
それは異様な光景だった。神父が床に座り込んでいた。というより、何かの上にまたがっていたと言った方がいい。それは人間だった。こちらからは神父の背中と彼が下敷きにしている人間の足が見えた。そして、何故か神父は服を身につけておらず、周辺の床には女物の衣類が散乱していた。
「目を覚ましているのです。何時その時が来てもいいように……」
ルビーが呟く。
「何時その時が……」
蒼白な顔……。固まったように動かない男の背中……。稲妻の陰影がルビーの心に亀裂を生じさせた。
「そこで、何をしているの?」
雷鳴と共に発した彼の言葉……それは、あまりに淡々と、そして、悲しみと怒りと嘲笑に満ちていた。神父は彼の存在を確認すると愕然として跳び退いた。そして、振り向いたその目にルビーの顔が雷光に反射して映った。
「こ、これは……その、彼女が急に具合が悪くなったので介抱してあげていたのです」
と言い訳した。フラッシュの中で横たわっているのがシャンティーヌだとわかった。彼女はあられもない姿でピクリとも動かなかった。ルビーは、そんな彼女をじっと見つめている。

「どうして裸なの?」
淡々とした口調でルビーが訊いた。その間も全く彼女から目を離そうとしない。
「そ、それは、服を脱いだ方が締め付けられないで済むからだよ。その、介抱してあげるのにはその方がいいんだ」
神父はその辺に投げ捨てた自分の宗教服で汗を拭った。
「介抱してたの? どうして?」
まだ、ルビーは彼女から目を逸らさずに言った。
「急に倒れたんだ。その、ほら、君に預かっていた彼女の服を返そうと思ってね。ここへ来てもらったんだけど、急に胸を押さえて倒れてしまって、それで、私が人工呼吸を……それから、心臓マッサージもして……」
と、神父はしどろもどろに説明した。
「ふーん」
ルビーは、瞬きもせずに言った。

「なら、どうして救急車を呼ばないの?」
「今、呼ぼうとしてたんだ。今……そうだとも……救急車を……」
と慌ててルビーの脇を通り抜けようとする神父に彼は鋭く言った。
「もう、遅い……!」
「え?」
ルビーの言葉に一瞬立ち止まる神父。その瞳に映るルビーの顔は微かに微笑んでいた。それは、雨に濡れて、ゾッとする程美しかった。そして、それはあまりにも醜かった。
「だって、彼女は、もう、とっくに死んでいるんだもの」

雷光が二人の間を貫いた。神父はその場から動けなくなり、青ざめて訊いた。
「な、何が言いたい?」
ルビーは、漆黒の翼を纏うと神父を指差して言った。
「あなたが殺したんだ」
「ハ、ハハ……何を言うんだ? 私は彼女を助けようとしたんだよ」
「彼女を陵辱したんだ」
「……!」
思ってもみないルビーの反撃に神父はいよいよ青ざめて振るえながら後ずさった。
「な、何でそんな言葉を……私が何をしたのかわかると言うのか? アルファベさえも満足に読めないようなこの小僧に……何がわかると言うんだ? 厄介者の精神病者のくせに……!」
「世の中は目に見える物がすべてじゃない。真実は、いつも偽善という厚い衣に隠されているんだ」
燐と見据えるルビーの視線に射抜かれて、神父はそこから逃れようともがいたが、足元にあった彼女の衣類に足が絡まり尻餅をついた。そして、そこへ追い討ちをかけるような雷鳴と雷光。
「わ、私は悪くない……私は神に使える者だぞ! 神に選ばれし者なんだ」
無様な格好で神父は喚いた。
「ふーん。笑わせるなよ。選ばれただって?」
ルビーはフッと微笑んだ。それから、すぐに真面目な顔になり、鋭く射抜くような視線を向ける。

「ならば、ご褒美をあげないとね」
途端に彼の背後にピシッと稲妻が走った。続いて大地を振るわせるような衝撃。すぐ近くに雷が落ちたのだ。それでも、ルビーは動じない。逆に神父の方は頭を抱えて蹲り、尻を向け、ガタガタと震えている。ルビーは、そんな神父の脇を通り過ぎ、彼女の所に行くと恭しく跪いた。そして、そっとその手にキスすると胸の上で組ませてやった。それから、彼女の頬に流れていた涙をハンカチで拭うとその身体にドレスを掛けてやる。あまりに惨く、恐ろしい目に合ったというのに、彼女は穏やかでやさしい顔をしていた。その間に腰が抜けてへたり込んでいた神父は四つんばいになってそこから逃げ出そうとしていた。と、突然、全ての窓が一斉に開いて、風と雨が吹き込んだ。窓枠がカタカタと鳴ってカーテンがはためく。そして、そこに立つルビーの姿を見た時、神父は恐怖のあまりピクリとも動けずにいた。

「何処へ行くの? 今度はあなたの番だよ。神父様。あなたに最もふさわしいご褒美をあげる」
そう言うと彼の瞳に光が帯びて彼の体がフワリと浮いた。
「そ、そんな……バカな……!」
驚愕する神父の身体も空中に浮かぶ。そして、開いた窓から嵐の中へと飛び出して行った……。
「うわっ! な、一体何をする気だ! 下ろせ! 放せ! 頼む! 許してくれ!」
神父は叫んだが、ルビーは無表情のままそれを念の力で屋根まで運んだ。
「わあっ! お願いだ! 許してくれ! 私が悪かった! 助けてくれ……!」
そこに閃く十字架を見て、神父は恐れおののいていた。
「頼む。許してくれ。殺る気じゃなかったんだ。本当だ。神に掛けて誓う。まさか死ぬなんて……。今まではみんな……」
「なら、直接、神様に訊いてみるんだね」

「知らなかったんです。あなたが本当に神のお使い、いや、神そのものであったなんて……。お願いです。どうか私の罪をお許しください。お願いです。どうか、私をお助けください。お願いです。お願い……」
「勘違いしているようだね。僕は神じゃない。そして、神の使いでもない。僕はただの……」
「いいえ! いいえ! ただの人間にこんな事が出来る筈がない。あなたは神です。そうだ! 神なら、少しは慈悲を掛けてくれてもいいでしょう? 私は今まで貢献したんだ。多少の罪を犯したとしても、人間とは所詮罪深いものなのだから……私の罪とて許されるべきだ。そうではありませんか!」
「しつこいよ! 僕は神じゃない。だから、あなたに御社を与える必要もない。僕は、僕の大切なものを壊したあなたが許せないだけだよ」
と言って彼は右手に光のクイを掲げた。それを見た神父は益益怯え、逃げようともがいたが、その身体はまるで金縛りにでもあったように動けずにいた。そして、そのままグイグイ十字架へと押し付けられて行く……。

「た、頼む! お許しください。お願いです! 神様……!どうか、ご慈悲を……!」
神父は懇願したが、ルビーは冷たく言い放った。
「貴様にくれてやる慈悲等ない!」
ルビーの言葉に神父は怒り、悪態をついた。
「や、やめろ! この化け物め! 人殺しの怪物が……! 誰か! 誰か来てくれ! 誰か……!」
神父は絶叫したが、ルビーは嘲笑うように言った。
「無駄だよ。この嵐だもの。誰の耳にも届きはしない」
そうして、ルビーは彼に近づくと囁くように言った。
「ところで、ねえ、大切な事忘れちゃったんだけど……。このクイはどちらの手から撃つんだっけ? 教えてくれない? そしたら、ちゃんとその通りにするから……。ねえ、いいでしょう? 心やさしい神父様」
「ヒィッ……!」
男はどれ程の恐怖を味わったろうか? 目はほとんど焦点を結んでいなかった。
「ぎゃあああぁ――っ……!」
激しく雨に打ち据えられ、光の鞭が幾重にも閃いた。そして、天から伸びた雷が十字架を直撃し、大地に轟音が轟いた。それから、ビシッ! と鈍い音がして、十字架が折れ、ゆっくりと回転しながら地面に落下して行った……。


 翌日は、まるで昨夜の嵐が嘘のように晴れて、雲ひとつない空が広がっていた。
「坊や。どうした? 顔色が悪いようだが……また昨晩も眠れなかったのかい?」
朝食の時、ジェラードが訊いた。ルビーは曖昧に頷くとカップに浮かんだバラの砂糖漬けを見つめていた。
「あまり酷いようなら、一度病院へ行って医者に診てもらわなくてはいけないよ。そして、薬を処方してもらうんだ」
ジェラードの言葉にルビーは首を振って反論した。
「いいよ。医者は嫌いだし、薬もいらない……」
「しかしね、食欲もなさそうだし……」
「いい! いらない」
と強く否定する。ジェラードはため息をつくとチラと窓の外を見て言った。
「そうだ。今日は、みんなで少し観光に回ろう。仕事が想ったより早く片付いたんだ。たまにはいいだろう? 馬車を手配しといたよ。どうだ? 素敵だろう?」
とジェラードが言ってもルビーはあまりうれしそうではなかった。怪訝に想ったジェラードが隣の席のギルフォートを見る。が、彼も首を横に振った。
「お仕事はおしまい? なら、ここを発つんだね?」
と立ち上がってルビーが言った。ジェラードが軽く頷くと彼も頷いて席を離れた。
「それじゃ、僕、荷物をまとめて来る」


 馬車はゆっくりと丘をのぼった。カタカタとした独特の振動と風……。窓の外に広がる景色は光に満ちて、皆、美しく輝いていた。花の群れ、草の群れ、そして、村の家々の屋根……。その中に彼女の家もあった。薔薇の垣根の向こうから、この間はこの丘を行く馬車を見ていた。
「寒い……」
風に吹かれてルビーが言った。と、隣に掛けていたギルフォートがそっと上着を掛けてやる。
「熱があるな」
彼の額に触れて言った。
「どうした?」
前に座っていたジェラードが振り向く。
「どうやら、昨夜の雨に濡れたみたいなんです」
とギルフォートが言った。雨に濡れると彼は決まったように熱を出した。
「そうか」
とジェラードは言って前を見た。すると、御者の男が振り返って言った。

「ハア。ホントに昨晩の雷は凄かったんでさ。ありゃあ、百年に一度あるかどうかの大嵐だったよ。正しく神の鉄槌とでも言おうかね」
人懐こそうな男は続けて喋った。
「そういや、昨夜のあれは、本物の神の鉄槌だったんですぜ、旦那」
と声を潜ませてジェラードに言った。
「ん?」
「雷が教会に落ちたんでさ」
「ホウ」
「それで、教会の天辺の十字架がポキリと折れて地面に落ちたんですがね、何とそこに神父様がくっついていたんでさ」

「神父が?」
「へえ。しかも、裸で……」
「裸だって?」
「それで、教会の中を調べると何と村一番の別嬪だって評判のマダム コーリエの死体が裸で寝かされていたんだそうです。いやあ、あの神父がよりによって女を襲って悦に浸ってたなんてね……後から何人も被害にあったという助成が警察に訴えて来たそうです。みんな、神父に弱みを握られ、脅されていたんだそうで……。全く、聖職者にあるまじきハレンチ神父だったんですよ! 神の鉄槌が落ちて当然! 村の者達も皆言ってるんです。神様ってのは、ホントにいらっしゃるもんなんだって……」
ルビーは、彼にとってはサイズの大きい上着に包まれたまま、黙って窓の景色を見ていた。
――ほんと。幸せの青い鳥がいるわ……ほら、あそこに……
ルビーは、ハッとして空を見た。が、そこにはただ、空色の風が流れているだけ……。
「シャンティーヌ……」
その空にビー玉の中の光の粒子が一瞬だけ小さく閃いて、それから、まるで幻想の中の泡粒のように消えて逝った……。産まれる前に消えてしまった儚い命のように……。

Fin.